ネットの”遺憾コメント”の拡散力と無判断

セクハラの野次が都議会で行われてから、とあるブログで火に油を注ぐゴシップのような文章が書かれていた。時事的な話題でもあり、たくさんツイートされていた。ツイートボタンの吹き出しの数字をクリックすると、ブログのページを紹介した検索欄が表示される。誰のアカウントが、どんなコメントを付けてタイムラインにポストしたのかがわかる。ノーコメントでそのまま紹介していたり、嗤っている人もいた。おそらく多くリツイートされた順位だろうが、Twitter内で有名な方をちらほら見かけた。自分がフォローしている人もいた。

内容が内容だけにTwitter内有名人の方々も「●●(書いた人)は残念だ」とか「なんだかなー」など、微妙な”遺憾コメント”とともにURLが付いている。

自分が不思議に感じたのは、「残念だ」と支持・同意できない気持ちを表しながらも、URLを添付してツイートをした人たちのその判断だ。

たとえば、政治家が会見で記者に質問されたときや、芸能人が囲みでレポーターに意見を聞かれたときなどに、自身の気持ちや意見が整理されてない状態であるにもかかわらず、しかしながら何かの言葉を発しなければならない状況に立たされていて、体裁や時間的な制約の考慮があって”遺憾の言葉”を重々しく口にするならまだ理解できる。

ネットの話に戻るが、URLを添付しつつ、徹底して批判するとか、秀逸な分析を行うなら、賛否はあれど紹介した人の意図がはっきりわかるだけでも理解できるし、前向きに評価できる。

気持ちが整理できないのであれば、無視するという最良の方法があるはずだろう。ネットから情報を拾った人たちは、常にマイクやカメラを他人から突きつけられているわけではない。SNSでフォロアーが返信に情報を一方的に飛ばしてくる場合があったとしても、無視することは容易なはずだ。

本質から外れた「くだらなさ」をフォロアーと共有したかったのだろうか? 

"遺憾コメント"を付けてツイートした人たちに上記ような意識はなかっただろう。恐らく目の前に流れる情報に対して、反射的になんともない言葉を付け足してしまったのだ。

つまりはフォロアーに対して、ただ紹介しただけである。ゴシップの情報を。

そのツイートを受け取ったフォロアーは、くだらない、残念、とおなじような思いになるかもしれないし、あるいは議員をあざ笑い、さらなる過去の行いを掘り起こそうとするかもしれない。

考えるべきは「お祭り炎上案件」に貢献してしまった、という事実だろう。反射的な情報の手渡しが、さらに油を注いでしまう。ブログを書いたページビューは伸びに伸びて、話題は本筋をそれて拡散し続け、そもそも問題は一体何だったのかわからなくなってしまう。


「そもそも名のあるブロガーが情報発信をしているのだから、私が紹介のツイートをしようがしまいが、そのゴシップ内容は世間に広がるんだから、別に関係ないんじゃないの?」

「いや私は遺憾に思う、とちゃんと書いてツイートしているし、受け取ったフォロアーがどう思うかは、その人の判断だから関係ないよ。ある情報はどんどん広げた方がいい」

「つーか、そもそも世の中はほとんどバカばっかりなんだから、ゴシップで炎上するのは当たり前だよ!wwwww 別に祭りでもいいじゃんwwwww てゆうか、俺も頭良くない平民だから、自分で考えるなんてめんどくさいんだよ。目の前のこと楽しんでるだけwwwwwwww あとはお偉いさん方が、その本質とやらの議論をすればいいだろ お 前、な に イ ン テ リ ぶ っ て ん の ! ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」


という反論があるかもしれない。

ネットが一般的に使われて、ブログやSNSで全世界に情報を発信する環境がある中で、個人がメディアになる、と喧しくなったのはいつ頃だろうか。

皆、情報を受け取ることに敏感でありなりながらも、自ら情報を発信することに鈍感なのだ。それは大手のメディアにも通じるところがある。

政府の情報をそのまま報じたり、古いイメージの型や物語に載せて、わかりやすい善意で放送したり記事にしたりする。そしてそれは、”個人のメディア”にも見て取れてしまうのだ。

お手軽・反射的に情報に反応する人ほど、自分自身のメディア性に鈍感だ。


※2014/06/28 記



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サッカーは戦争だ。そのとおり!

サッカーを取り巻く言葉が戦争に似ているのは、指摘があたっているように思える。しかし、なんだか納得できかねる。

楽勝だと思えていた戦いに敗れて、ここは踏ん張りどころという戦いでも引き分けで「善戦」という言葉とともに、次は負けられない戦いと喧伝されて、策がなくなった状態で挑む心構えが精神論ばかりで、まさに神風を待つかのような空気に染まり、いざ終ってみると、やっぱり実力差がありすぎたよねぇ~、と覚めた意識に戻って、戦った人たちに対してなにやら冷たい空気を当てる。もちろんすべての人に当てはまることではないだろうが、どうしても既視感を覚えてしまう。

一方で、全く注目していなかった競技選手が世界大会で優勝したり、音楽家の人が権威ある舞台で活躍したりすると、あっこんな日本人いたんだ! と突然現われた存在をまるで神様のように扱ったりする。もしかすると全く事前に注目されず、ただ淡々とこなしている人を邪魔しないように気を遣うことが、おおざっぱな国民性として一番いい方法なのかもしれない。

ナインティナインの岡村隆史が渋谷の交差点で騒いだり痴漢行為をする人たちを批判していた。ネットで調べてみたら動画サイトにラジオ放送の投稿があり聞いてみたのだが、批判というよりも、残念という気分を口にしている様子だった。そのあと、自身が小学生時代に波の立つプールで水の流れに合わせて逃げるように痴漢行為をしていたことを告白していた。一部のメディアが騒ぐ「にわか」批判ではないことは明らかだった。

サッカーを取り巻くたくさんの情報と戯れていると、岡村の発言と「にわか」を巡る話がごちゃごちゃなまま批判として都合良く語られてしまったのだろう。

村上龍の「サッカーは戦争だ」という文章がある。該当するエッセイをすべて読んでいないし、自分が著者の意図を理解しているつもりなどないが、ネットが一般的に普及する以前の釣りのような気を引く文章の技術であることは、村上龍のエッセイに慣れている読者であればわかりきっていることだし、最近の正面切ってこの文言に反論すること自体が的外れなのは明白だろう。

むしろヨーロッパのクラブチームの試合を取材した村上龍のレポートを読むと、地元のサポーターがいかにサッカーが好きで詳しく、相手チームの罵倒に対して車を壊したり、野次を飛ばしているのかが伝わってくる。

サポーターたちは本気で応援しているのだ。

応援される選手からすれば緊張感が半端ではないだろう。負けた試合の日は町で外食はできないそうだ。必ずサポーターに絡まれるから。

もちろん日本人が荒れたサポーターになれ、ということではない。岡村隆史が「負けた試合でハイタッチするって理解できんわぁ~」という指摘は、応援の本気さが感じられず、ただ戯れて浸るだけのお祭り気分に利用されていることに苛立ったのかもしれない。

子供のいる女性タレントが言っていた。サッカーの強い小学生チームで共通しているのは、試合で応援しているお母さんたちが「必死で本気で応援している」のだという。

本気の戦いは自然と戦争の色を帯びてくるだろう。しかしそれは全く戦略のなかった日本の先の戦争とは全く別次元のものだ。


※2014/06/25 記




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好き? or 嫌い?

吉本興業の偉い人がテレビ番組に出演していた時に、「横山やすしさんは、人と会うと五秒で好きか嫌いかを決める」と言っていた。それを見ていた自分は、そうゆう考え方もあるんだろうな、と思った。

直感で決まることもあれば、他人からの影響で決まることもあるだろう。著名な人や親や友達や、あるいは地域的文化的なこともあるだろう。最初はなんとも思っていなかったが、だんだんと時間が経つにつれて、好き嫌いに寄っていくこともある。

逆に、相手の「好き嫌い」の反応によって、こちらの「好き嫌い」が定まってしまうパターンもあるだろう。

「好き嫌い」で相手への判断が決まると、そのあと考えるのが楽になる(ように思えてくる)。


私は「Aが嫌い」なので、彼に対する対応はいつも決まっている。とにかく”嫌い”なのだ。服装のセンス、しぐさやしゃべり方、休日の過ごし方から、持っている車、考え方もそうで、Aのやることなす事全てが気に”入らない”し、親しく会話をする連中とも私は”相容れない”だろう。私のこの考えは揺るぎない。


上の文章は「好き」と言い換えて”引用符”の中身を好意ある言葉に替えても成り立つだろう。

そして、あるとき、好きな相手だったのに嫌いな感情が芽生えたり、反対に、嫌いだった相手のいい部分を発見することもある。嫉妬の始まりだ。

心が反転した瞬間をとらえた時、どう思うのだろうか? 自分の感情を素直に認めるのか? それともこれまで通りの「好き嫌い」の判断と態度を未来永劫続けるのか?

若干長々と書いてきたが、相手に対する気持ちがどうであれ「好き嫌い」の感情に支配され続けていることを指摘したかったのだ。「好き嫌い」というのは根本的なものなので、心のなかから完全に取り除くことは出来ない。おそらく日本的な”甘え”の感覚も同時に潜んでいるだろう。しかし、自分の感情を小さく収めて距離をとって観察することはできる。

おそらく横山やすしが活躍していた時代には、取り巻きの人たちがたくさんいて、彼らが嫌われた人との対立をかわしたり、収めたり、逃げ込める場所を用意してくれたと思う。時間の感覚も今とちがってもっと余裕があっただろう。

リスク回避の無責任と、押し付けの自己責任が深刻なほどに跋扈している現在だと、助けてくれる人と接する機会が少なくて、逃げられる場所も多くないだろう。

ひとりの人間には多面な要素があるので、一括りにして一方的に「好き嫌い」を判断するのは合理的ではないし、あとあと融通が利かなくなる。適宜観察して部分的な評価をする必要がある。そして、その評価自体も相手の変化によって変えるべきだろう。

「好き嫌い」の判断は永遠に先送りしても構わない代物なのだ。






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アンチは真摯で絶え間ない努力家

好きなアニメの面白いMADでも探そうと思って、ニコニコ動画を検索してみると、アニメの批判をするタイトルの動画を発見してしまった。少しだけ覗いてみたのだが、このまま見続けると気分が悪くなりそうなのですぐに消した。アニメにかぎらず作品名でネットを検索してみると、匿名掲示板なり、匿名でブログに批判を書いていたりするのが見つかる。まっとうな批判ならまだしも、大抵はバイアスがかかった感情的な文面で、読み終わると、「嫌い」という言葉を別の表現に置き換えて主張したかっただけ、で済む内容だったりする。

アンチはどこにでもいるようだ。

うるさ型・煽ってゆくスタイル・囂々な言葉を並べたてるのは、ネットでお手軽に主張できる方法なのだろう。とりあえず思いついたことを書きこんでサーバーにデータを送信して画面に表示されることで自らの存在と主張ができてしまうのだ。

自らの主張を強固なものにするための、さらなるお手軽な方法は物量作戦だ。つまり文章量である。更新頻度である。データの総量の膨大さである。内容の精度などはどうでもいい。とにかく書き続けることによって、自分をフォローしてくれている人たちにコンテンツを供給しつつ、自身の居場所を確保して、批判する対象に精神的なダメージを与えることができるのだ。

批判をすることで、話題になった相手の裸の王様ぶりを暴露した気分になり、自分が高名な批評家やジャーナリスト、インフルエンサーにもなったように思えるだろう。フォロアーから賞賛を浴びればますます自分が正義であることが更新され、証明になってゆく。

しかしながら、アンチの人々は気づいていないのだろう。自分の主張が目にとまったモノに反応しているだけのことに。目の前に批判できるモノがなければ、自分の存在そのものが証明できないことに。

そして、自らが絶え間ない努力家であることに気づいていない。

その努力のエネルギーを他のことに向けて懸命になれば別の道が開けて新しい発見をするるかもしれないのに、なぜやらないのだろうか?

まず始めるべきはあら探しの批判をやめて、提案すること、褒めることではないだろうか。

 




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近道はなかったし、王道もなかった

前回からの続き的な内容です。

地図の情報から受け取る現在地、目的地、そして道順という流れは、人のものの考え方にも当てはまる。

例えば陰謀論を取り上げてみよう。大雑把に説明すると、表には決して姿を見せない「影の支配者」が君臨していて、その指示のもとに配下の諜報員が一般市民に工作活動を仕掛けて、人々が操られている、というものだ。

陰謀論者にとって「影の支配者」の存在が絶対の条件であり、自らの主張を支える土台であり目的である。いないと困るのだ。たとえ妄想であっても、居てほしいと願う。いや、いなければならない。「影の支配者」の居場所へ至る道のりをつまびらかにすることが、自分自身の進むべき正義であると信じて疑わない。

なぜならば、現在の自分の置かれている状態に漠然とした満たされぬ想いがあるから。私がいまここにいるのは、本来の私がいるべき場所ではない。私がここに留まざるをえないのは、他でもない「支配者」のせいであり、彼の諜報員たちの工作行為であり、いまだ”真実”に目覚めていない民衆を永遠の眠りから救うべく私は立ち上がり動き出すのだッ!それが私の使命だッ!

という例えは極端すぎて中二病と揶揄されてしまうだろう。

しかしながら、似たような思考回路はいたるところで見かける。

テレビによく出ているあの経営者が悪い。ウチの社長は馬鹿だから。総理大臣が無能。官僚は無責任。マスゴミ。凶悪犯罪者は死刑。戦争が悪い。平和ボケ。親の世代が悪い。男が悪い。女が悪い。子供が悪い。オッサンオバサンが悪い。容姿礼賛の風潮が悪い。学歴社会が悪い。金持ちが悪い。マジョリティが無関心。日本の教育は欠陥だらけ。新築マンションも建てるだけで欠陥だらけ。先進国の中で日本は遅れている。日本の「空気」が悪い。などなど。

今の不満から原因を探して、自分の正しさを証明するために情報を収集して、頑なに主張し拡散し続ける。

それは間違いではないにしろ、正しくもないことに気づくべきだろう。

わかりやすさが共感を導き、湧き上がった強烈な感情が人を引きつけて、声高な主張が陶酔を生み出し、目的とする場所まで一本道を大行進できるかもしれない。

しかし、それは一時的なお祭り騒ぎであって、解散してしまえば、みんなはもとの日常へ戻ってしまう。決して近道ではなかったし、王道でもなかったのだ。

もっとも重要なのは「祭りのあと」に、自分が何を始めるか、だろう。

あくまで自分のいる現在地を確認して、目的地を捉えつつも、いま進んでいる道の周辺に何があるのかを観察して、新たな道のりを考える力が必要ではないだろうか。



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地図アプリを扱う時の心構え

先日、外で職場の同僚を待っていた。とある公園が待ち合わせ場所だった。バイクでやって来る彼には住所を伝えていた。三丁目の二十五番地。

ベンチに座って待っていると、懐の携帯電話が振動しながら鳴った。彼からの連絡だ。

「いま、三丁目の二十三番地に居るんですけど、あのー、どの辺りですかね?」

公園が見つからないので慌てている様子だった。朝から忙しくて、かなり予定の時間から遅れて、私へ荷物を届けに来たのだ。下町の見通しの狭い住宅地なので、一方通行だったり、入り組んだ細い道路があって迷いやすいのだろう。

二十三番地は道路をはさんですぐ隣だった。おそらくその区画の反対側に居ると思って、周辺の様子を確かめ案内しようと私は公園から出た。

すぐ目の前の、電柱の近くに原付バイクを停めて、スマートフォンを必死にスワイプ・タップしている男がいた。それが同僚であった。まったく私の存在に気づいていない。おそらく地図アプリで懸命に場所を検索しているのだろう。こちらが話しかけるまで、待ち合わせの公園が目の前にあることすら気づいていなかった。

彼は極端な例なのかもしれない。たしかに少し変人扱いされている。

隣の番地なのはわかっているだろうから、スマートフォンの小さな画面を凝視するよりも、周りを見回したり、自分の足で辺りをしばらく眺めて歩けば、膨大な情報をリアルタイムで掴めるはずなのに、なぜ同僚はアプリの検索に集中していたのか?

地図アプリで一番使う機能は検索だろう。現在の居場所、目的地やそれらをつなぐルートが示されたり、評判のいいお店を探したり、乗り物の時刻表を調べたりできる。

ユーザーの頭のなかでは、目的の情報が「一点」「極点」で存在していて、いまいる「地点」から複数あるルートを絞り込んでくれる便利さはとても快適だ。とりあえずひとつの「正解」が無数の経路の中から導き出されるからだ。途中の手間を秒殺で排除してくれる。

一方で、目的そのものや自分自身の記憶が曖昧だったり、もしくは関連した情報が膨大にあって、すべて列挙されてしまった場合、「正解」は埋もれて失われてしまう。

自分の記憶を疑い始めると止まらなくなり、事実関係を正確に記した文章やら映像やら外部データがないと、目的地へ向かう第一歩すら踏み出せなくなってしまう。

膨大な情報を統合して整理するには、事前にあつめた断片から余計なものを捨てて、理解しやすいように順序立てている必要がある。教科書やマニュアルなどだ。準備に時間とお金が不可欠だ。

同僚は「点(目的地)」と「点(現在地)」と、その間を結びつける「線(経路・道順)」の情報ツールに依ってしまったのだろう。

モバイルで地図アプリを使っていると、画面枠の狭さを意識せざるを得ない。スライドさせれば地形を果てしなく移動できて地球の裏側まで行けるが、覗きこんでいる窓枠の大きさを変えることは出来ない。拡大縮小で適宜データ表記の変化は起こるが、地図の情報は効率よくするため基本的には簡素だ。

紙の地図はページを開いた時に情報の載った紙面全体が視覚に入ってくる。最初に該当する地域の全体像を把握できる。そこから現在地と目的地と道順を自分の頭で検索する必要がある。焦点を絞りこむ作業はあなたの自由だ。

紙と電子のどちらがいいか悪いかを問いたいわけではない。地図アプリが示した道順をまったく無視して、あなたが別の道を突き進んでもまったく構わないのだ。

なんでこんなエントリを書いたのか。議論したり、ニュースで話題になっていることをコメントする際にも応用が効いたり、他人の発言からその人自身の考え方が把握できるヒントになるからだ。細かいところは長くなるので、機会と私の説明能力があれば(?)続きを書こうと思う。


 




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戦争は国家が行う最大の詐欺 ~映画「花咲く港」~

依然として振り込め詐欺がなくならなず、役所の車が住宅街を巡回して、ワンフレーズな対策方法を唱えている。

オレオレ詐欺については以前に書いた。そもそも数値化出来ない潔白を買おうとしている感覚が経験の少なさ、取引相手を精査せずにあっさり信用してしまう思考放棄な甘えに通じていることは遠回りに指摘した。

 

お金を持っている人が、物や情報やサービスを買う。双方が納得して取引が成立して交換している瞬間には、騙し・欺きが起きることはない。納得できなければ取引をしなければいい。あっさりと判断ができない微妙な場合には、数量を限定するとか、値段の交渉をする必要がある。

詐欺とは、取引が成立した後しばらくして、第三者から指摘されたり、新しい情報が入ってきた時、納得出来ない後悔とともに心のなかにやって来るものだ。

取引に納得していれば、詐欺ではない。それを一般的には「勉強代」と言い換えるのかもしれない。

木下恵介の映画「花咲く港」の冒頭には、二人の主人公が実在の人物の息子たちを演じ、島の住民を騙して大金をせしめようとする計画が観客だけに向けて示される。住人たちは先代の島に貢献してくれた影響もあって二人の息子がやってきたことをあっさりと信じて、造船のための資金を集めることに協力してしまう。


※以下、作品のネタバレがあります※


島の住人のなかでひとりの商人の男が、今さら船を作ることへ疑問を感じ意見を言いつつもしぶしぶ妥協するシーンがある。これはいわば経済合理的な考慮、商売目線だろう。ちなみに戦争にも疑問を呈する。

二人の詐欺師は、造船の資金を集めてさっさと島から脱出する計画だったが、いろいろあって、本当に船作りを始めてしまう。(細かいところは忘れたので皆さん御覧くださいw)

住人の納得している姿、また嵐の夜に必死になって船を守ろうとする姿に、詐欺師たちの考えや行動が変わってゆく。「お金なんてどうでもいいじゃないですか」という台詞の裏側の気持ちが徐々に変わってゆくのだ。納得したいという気持ちが滑稽さを纏いつつもおおきな話へ進んでいってしまう。

そして最後の出港シーンで住人たちの目の前で敵機が船を壊すところに遭遇する。船作りを疑問に思っていた商人の男は「私は目が冷めました」と泣き声になり、戦争へ突き進む雰囲気に飲み込まれてゆくのだ。

1943年の戦時中にこのような演出をする勇気に恐れ入る。

目の前で船が壊されたことによって、被害の当事者となってしまった商人から合理的な考えが吹っ飛んでしまったのだ。間接的に批判をしている木下監督の観客を嘲笑うような巧妙さに、私は凄みを感じた。

戦争とは国家が国民をだます最大級の詐欺行為なのだろう。

笑い要素がたくさんあるテンポが良い作品で、今の感覚でも十分観やすいので、まだの人はぜひ見てほしい。

というか、国家や外交に関して、最近の中途半端にはびこった右・左巻き思想を打ち砕くすごい作品だと思う。時代背景の設定をそのままにしてリメイクしてほしい。そんな勇気ある映像作家を求む。






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侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画「悲情城市」

侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画「悲情城市」のDVDが再発売されるそうです。

そいえば、ブログのプロフィールに「お気に入りの映画 侯孝賢」と書いてあるにもかかわらず、個人的ナンバーワン映画「悲情城市」については書いていなかった。先日ブログ内を検索してヒットしなかった時に初めて気づいたのだった。

しかしながら、映画を見たのはだいぶ前で、記憶も曖昧になり、最近になって「ゼロ・グラビティ」というすごい作品が登場して、アメリカ映画の底力はすごいなー、と個人的映画ランキングが上昇している最中なので、(まあ、よくわからないが)あらためて「悲情城市」を振り返りたい。

と書いておきながら、繰り返すが細かいところを覚えていない。映画を見直す時間的金銭的余裕もしばらくないようなので、いつもどおりの無責任な、曖昧記憶のままで進める。

1945年の台湾、玉音放送が流れるなかで、子供が生まれるシーンから始まる。あとからわかるが、大家族の末っ子で聾唖の男の子が作品の主人公なのだが、なにぶん刃物を振り回したりする個性的な兄弟がいたり、父親は土地の人間関係を仕切っているヤクザっぽい感じの人だったり、主人公の友達とのいろいろな関係があったりと、エピソードがたくさんある。(細かい内容は忘れてしまったw)

最初は映画「ゴッド・ファーザー」みたいだな、と感じた。親戚家族が一同に揃って写真を撮るシーンが同様にあったりする。

「ゴッド・ファーザー」は銃が出てきてドライな殺し合いだが、「悲情城市」は油と汗と湿気の含んだアジアの暑さを感じさせる。ねちっこい感覚が日本と共通している気もしてくるのだ。

作品の一番の特徴は主人公が聾唖で、室内の所々にメモ用紙があり、自分の考えを伝えるときに文字を手で書くシーンだろう。画面に大文字で文章が現れる。

物語の終盤で主人公の友達が政治運動で身を隠している最中にこっそりと会いに行く。そこで交わされる”書く”会話のシーンと、主人公の想いを表現するシーンが感動的で、自分は涙が止まらなかった。

派手な演出などないため、たぶん地上波テレビでは放送されないだろう。じっくりと時間をかけて観るタイプの作品なのだ。興味がわいた人は是非手にとってほしい。






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絵記号は残る(と思う)

テキストエディタやドキュメントソフトで、上書き保存のボタンにフロッピーディスクのアイコンが使われている。

フロッピーディスクがわからない世代が主流になってきたら、そのうちアイコンの絵は変わるのかも、とTwitterでつぶやいている人がいた。なるほどそうかもしれない。

しばらく考えてみると、いま何気なく使われているアイコン・記号は、意外と長く残るのではないか、とも思えてきた。

スマホのメールアプリには大抵封筒が描かれている。

同様に写真アプリにはカメラ、電話の場合は古い曲線デザインの受話器、映像録画はフィルムや映写機・ハンディカムのようなカメラの絵を見かける。

見た瞬間に判別しやすいからだろう。

録音・音声入力の場合は、カセットテープ……ではなくて、マイクだ。イコライザの棒グラフのような絵があったりする。

つまり、人間と情報の境目にあって接する道具や機器が記号として示されている。

「保存する」というのは時間の概念みたいなものなので、今のところフロッピーディスクのような記録媒体でしか表現できないだろう。録音のマイクように境目で介在するモノがない。

いや、もしかすると、ある日突然に共通した記号が全世界で統一され使われ始めるのかもしれない。

パソコンや周辺機器の主電源が、いつの間にか丸と上方に一本の線が飛び出すマークになっていたように。




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「ルール」と「勝ち」のないゲーム ~アニメ「カイジ」~

福本伸行の「カイジ」では、賭博のなかでイカサマや相手との読み合いなどが描かれている作品だが、ゲームを進める上で非常に重要な事柄がある。

それは、最初に提示されたルールに参加者が合意する、という確認だ。この作業がないと先に進めない。うだうだと「待ってくださいよ」と判断を渋っていると、「お前らいつ決めるんだ!?」と説教されてしまう。

チンチロリンでは親は必ず二回サイコロを振るとか、パンチコがひと玉4000円とか、じゃんけんに勝てば星をひとつ得るとか、電流の通った鉄骨を渡った向こう側のビルに賞金が用意してある、などルールの説明がなされる。

物語が進んでゆくにつれて、参加者や主催者が納得できずに、途中でルールを変更したり、やめようとしたりする場面がある。

地下労働施設の班長がイカサマのサイコロを使ったからカイジも用意した自分のサイコロを使うとか、パチンコの「沼」の攻略が順調に進んでいるカイジに対して裏カジノの一条店長が玉の購入を拒否したり、カイジが鉄骨を渡りきったのに電流を途中で止めていたことに納得できなかったり、とスマートに話が流れることがない。

カイジと主催者側との間で行き詰まったシーンになると第三者が現れる。チンチロリンでは隣の班長が騒動を聞きつけてその後の展開を見守ったり、パチンコのシーンではカメラ越しに見ていた兵藤和尊会長が、一条聖也に電話をかけてパチンコ玉の交換に応じるよう促したりする。鉄骨を渡った後には、新たなゲームが提案される。

まったく外側の第三者で、冷静に状況を眺めている仲介がないと、物事がきちんと進んで行かない。

事前にルールの確認をしたのにもかかわらず、納得出来ない気持ちを抱えたまま、とりあえず参加して(させられて)流れに乗っていたが、途中で詰まってくると不満が一気に吹き出して、ごねだして、まとまらなくなってしまう。

なんだか身近でもよく見かける話だろう。

統一された考え・思想がないまま、ローカルなルールでつながっている曖昧模糊な世界を生きざるを得ないのかもしれない。

あらかじめ法律があるにもかかわらず、平然と基準が守られていなかったり、知っていたとしてもローカルな「空気・雰囲気」に流されてしまったりする。

あるいは、科学的な見地が何度も示されているのにもかかわらず、前時代的な物語を否定するどころか、ますます固執したり、コンテンツとして消費したりする。

ルールがそれを作った人たちの利権を守るための、内向きで無責任さを保証してくれる存在なのだろう。だから、きちんとのっとって「勝ち組」が現れると一挙に嫉妬が沸き起こる。

そもそも「負け」を感じさせない仕組みのはずだったのだから。勝者がいることによって、敗者の存在を浮かび上がらせてしまう。

カイジのパチンコ沼の攻略を見ていると、スマートな勝ち方などなくて、突破口は力技しかないように思えてくる。もちろんそれが正解かどうかはわからない。


  





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