地図アプリを扱う時の心構え

先日、外で職場の同僚を待っていた。とある公園が待ち合わせ場所だった。バイクでやって来る彼には住所を伝えていた。三丁目の二十五番地。

ベンチに座って待っていると、懐の携帯電話が振動しながら鳴った。彼からの連絡だ。

「いま、三丁目の二十三番地に居るんですけど、あのー、どの辺りですかね?」

公園が見つからないので慌てている様子だった。朝から忙しくて、かなり予定の時間から遅れて、私へ荷物を届けに来たのだ。下町の見通しの狭い住宅地なので、一方通行だったり、入り組んだ細い道路があって迷いやすいのだろう。

二十三番地は道路をはさんですぐ隣だった。おそらくその区画の反対側に居ると思って、周辺の様子を確かめ案内しようと私は公園から出た。

すぐ目の前の、電柱の近くに原付バイクを停めて、スマートフォンを必死にスワイプ・タップしている男がいた。それが同僚であった。まったく私の存在に気づいていない。おそらく地図アプリで懸命に場所を検索しているのだろう。こちらが話しかけるまで、待ち合わせの公園が目の前にあることすら気づいていなかった。

彼は極端な例なのかもしれない。たしかに少し変人扱いされている。

隣の番地なのはわかっているだろうから、スマートフォンの小さな画面を凝視するよりも、周りを見回したり、自分の足で辺りをしばらく眺めて歩けば、膨大な情報をリアルタイムで掴めるはずなのに、なぜ同僚はアプリの検索に集中していたのか?

地図アプリで一番使う機能は検索だろう。現在の居場所、目的地やそれらをつなぐルートが示されたり、評判のいいお店を探したり、乗り物の時刻表を調べたりできる。

ユーザーの頭のなかでは、目的の情報が「一点」「極点」で存在していて、いまいる「地点」から複数あるルートを絞り込んでくれる便利さはとても快適だ。とりあえずひとつの「正解」が無数の経路の中から導き出されるからだ。途中の手間を秒殺で排除してくれる。

一方で、目的そのものや自分自身の記憶が曖昧だったり、もしくは関連した情報が膨大にあって、すべて列挙されてしまった場合、「正解」は埋もれて失われてしまう。

自分の記憶を疑い始めると止まらなくなり、事実関係を正確に記した文章やら映像やら外部データがないと、目的地へ向かう第一歩すら踏み出せなくなってしまう。

膨大な情報を統合して整理するには、事前にあつめた断片から余計なものを捨てて、理解しやすいように順序立てている必要がある。教科書やマニュアルなどだ。準備に時間とお金が不可欠だ。

同僚は「点(目的地)」と「点(現在地)」と、その間を結びつける「線(経路・道順)」の情報ツールに依ってしまったのだろう。

モバイルで地図アプリを使っていると、画面枠の狭さを意識せざるを得ない。スライドさせれば地形を果てしなく移動できて地球の裏側まで行けるが、覗きこんでいる窓枠の大きさを変えることは出来ない。拡大縮小で適宜データ表記の変化は起こるが、地図の情報は効率よくするため基本的には簡素だ。

紙の地図はページを開いた時に情報の載った紙面全体が視覚に入ってくる。最初に該当する地域の全体像を把握できる。そこから現在地と目的地と道順を自分の頭で検索する必要がある。焦点を絞りこむ作業はあなたの自由だ。

紙と電子のどちらがいいか悪いかを問いたいわけではない。地図アプリが示した道順をまったく無視して、あなたが別の道を突き進んでもまったく構わないのだ。

なんでこんなエントリを書いたのか。議論したり、ニュースで話題になっていることをコメントする際にも応用が効いたり、他人の発言からその人自身の考え方が把握できるヒントになるからだ。細かいところは長くなるので、機会と私の説明能力があれば(?)続きを書こうと思う。


 




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戦争は国家が行う最大の詐欺 ~映画「花咲く港」~

依然として振り込め詐欺がなくならなず、役所の車が住宅街を巡回して、ワンフレーズな対策方法を唱えている。

オレオレ詐欺については以前に書いた。そもそも数値化出来ない潔白を買おうとしている感覚が経験の少なさ、取引相手を精査せずにあっさり信用してしまう思考放棄な甘えに通じていることは遠回りに指摘した。

 

お金を持っている人が、物や情報やサービスを買う。双方が納得して取引が成立して交換している瞬間には、騙し・欺きが起きることはない。納得できなければ取引をしなければいい。あっさりと判断ができない微妙な場合には、数量を限定するとか、値段の交渉をする必要がある。

詐欺とは、取引が成立した後しばらくして、第三者から指摘されたり、新しい情報が入ってきた時、納得出来ない後悔とともに心のなかにやって来るものだ。

取引に納得していれば、詐欺ではない。それを一般的には「勉強代」と言い換えるのかもしれない。

木下恵介の映画「花咲く港」の冒頭には、二人の主人公が実在の人物の息子たちを演じ、島の住民を騙して大金をせしめようとする計画が観客だけに向けて示される。住人たちは先代の島に貢献してくれた影響もあって二人の息子がやってきたことをあっさりと信じて、造船のための資金を集めることに協力してしまう。


※以下、作品のネタバレがあります※


島の住人のなかでひとりの商人の男が、今さら船を作ることへ疑問を感じ意見を言いつつもしぶしぶ妥協するシーンがある。これはいわば経済合理的な考慮、商売目線だろう。ちなみに戦争にも疑問を呈する。

二人の詐欺師は、造船の資金を集めてさっさと島から脱出する計画だったが、いろいろあって、本当に船作りを始めてしまう。(細かいところは忘れたので皆さん御覧くださいw)

住人の納得している姿、また嵐の夜に必死になって船を守ろうとする姿に、詐欺師たちの考えや行動が変わってゆく。「お金なんてどうでもいいじゃないですか」という台詞の裏側の気持ちが徐々に変わってゆくのだ。納得したいという気持ちが滑稽さを纏いつつもおおきな話へ進んでいってしまう。

そして最後の出港シーンで住人たちの目の前で敵機が船を壊すところに遭遇する。船作りを疑問に思っていた商人の男は「私は目が冷めました」と泣き声になり、戦争へ突き進む雰囲気に飲み込まれてゆくのだ。

1943年の戦時中にこのような演出をする勇気に恐れ入る。

目の前で船が壊されたことによって、被害の当事者となってしまった商人から合理的な考えが吹っ飛んでしまったのだ。間接的に批判をしている木下監督の観客を嘲笑うような巧妙さに、私は凄みを感じた。

戦争とは国家が国民をだます最大級の詐欺行為なのだろう。

笑い要素がたくさんあるテンポが良い作品で、今の感覚でも十分観やすいので、まだの人はぜひ見てほしい。

というか、国家や外交に関して、最近の中途半端にはびこった右・左巻き思想を打ち砕くすごい作品だと思う。時代背景の設定をそのままにしてリメイクしてほしい。そんな勇気ある映像作家を求む。






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侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画「悲情城市」

侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画「悲情城市」のDVDが再発売されるそうです。

そいえば、ブログのプロフィールに「お気に入りの映画 侯孝賢」と書いてあるにもかかわらず、個人的ナンバーワン映画「悲情城市」については書いていなかった。先日ブログ内を検索してヒットしなかった時に初めて気づいたのだった。

しかしながら、映画を見たのはだいぶ前で、記憶も曖昧になり、最近になって「ゼロ・グラビティ」というすごい作品が登場して、アメリカ映画の底力はすごいなー、と個人的映画ランキングが上昇している最中なので、(まあ、よくわからないが)あらためて「悲情城市」を振り返りたい。

と書いておきながら、繰り返すが細かいところを覚えていない。映画を見直す時間的金銭的余裕もしばらくないようなので、いつもどおりの無責任な、曖昧記憶のままで進める。

1945年の台湾、玉音放送が流れるなかで、子供が生まれるシーンから始まる。あとからわかるが、大家族の末っ子で聾唖の男の子が作品の主人公なのだが、なにぶん刃物を振り回したりする個性的な兄弟がいたり、父親は土地の人間関係を仕切っているヤクザっぽい感じの人だったり、主人公の友達とのいろいろな関係があったりと、エピソードがたくさんある。(細かい内容は忘れてしまったw)

最初は映画「ゴッド・ファーザー」みたいだな、と感じた。親戚家族が一同に揃って写真を撮るシーンが同様にあったりする。

「ゴッド・ファーザー」は銃が出てきてドライな殺し合いだが、「悲情城市」は油と汗と湿気の含んだアジアの暑さを感じさせる。ねちっこい感覚が日本と共通している気もしてくるのだ。

作品の一番の特徴は主人公が聾唖で、室内の所々にメモ用紙があり、自分の考えを伝えるときに文字を手で書くシーンだろう。画面に大文字で文章が現れる。

物語の終盤で主人公の友達が政治運動で身を隠している最中にこっそりと会いに行く。そこで交わされる”書く”会話のシーンと、主人公の想いを表現するシーンが感動的で、自分は涙が止まらなかった。

派手な演出などないため、たぶん地上波テレビでは放送されないだろう。じっくりと時間をかけて観るタイプの作品なのだ。興味がわいた人は是非手にとってほしい。






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絵記号は残る(と思う)

テキストエディタやドキュメントソフトで、上書き保存のボタンにフロッピーディスクのアイコンが使われている。

フロッピーディスクがわからない世代が主流になってきたら、そのうちアイコンの絵は変わるのかも、とTwitterでつぶやいている人がいた。なるほどそうかもしれない。

しばらく考えてみると、いま何気なく使われているアイコン・記号は、意外と長く残るのではないか、とも思えてきた。

スマホのメールアプリには大抵封筒が描かれている。

同様に写真アプリにはカメラ、電話の場合は古い曲線デザインの受話器、映像録画はフィルムや映写機・ハンディカムのようなカメラの絵を見かける。

見た瞬間に判別しやすいからだろう。

録音・音声入力の場合は、カセットテープ……ではなくて、マイクだ。イコライザの棒グラフのような絵があったりする。

つまり、人間と情報の境目にあって接する道具や機器が記号として示されている。

「保存する」というのは時間の概念みたいなものなので、今のところフロッピーディスクのような記録媒体でしか表現できないだろう。録音のマイクように境目で介在するモノがない。

いや、もしかすると、ある日突然に共通した記号が全世界で統一され使われ始めるのかもしれない。

パソコンや周辺機器の主電源が、いつの間にか丸と上方に一本の線が飛び出すマークになっていたように。




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「ルール」と「勝ち」のないゲーム ~アニメ「カイジ」~

福本伸行の「カイジ」では、賭博のなかでイカサマや相手との読み合いなどが描かれている作品だが、ゲームを進める上で非常に重要な事柄がある。

それは、最初に提示されたルールに参加者が合意する、という確認だ。この作業がないと先に進めない。うだうだと「待ってくださいよ」と判断を渋っていると、「お前らいつ決めるんだ!?」と説教されてしまう。

チンチロリンでは親は必ず二回サイコロを振るとか、パンチコがひと玉4000円とか、じゃんけんに勝てば星をひとつ得るとか、電流の通った鉄骨を渡った向こう側のビルに賞金が用意してある、などルールの説明がなされる。

物語が進んでゆくにつれて、参加者や主催者が納得できずに、途中でルールを変更したり、やめようとしたりする場面がある。

地下労働施設の班長がイカサマのサイコロを使ったからカイジも用意した自分のサイコロを使うとか、パチンコの「沼」の攻略が順調に進んでいるカイジに対して裏カジノの一条店長が玉の購入を拒否したり、カイジが鉄骨を渡りきったのに電流を途中で止めていたことに納得できなかったり、とスマートに話が流れることがない。

カイジと主催者側との間で行き詰まったシーンになると第三者が現れる。チンチロリンでは隣の班長が騒動を聞きつけてその後の展開を見守ったり、パチンコのシーンではカメラ越しに見ていた兵藤和尊会長が、一条聖也に電話をかけてパチンコ玉の交換に応じるよう促したりする。鉄骨を渡った後には、新たなゲームが提案される。

まったく外側の第三者で、冷静に状況を眺めている仲介がないと、物事がきちんと進んで行かない。

事前にルールの確認をしたのにもかかわらず、納得出来ない気持ちを抱えたまま、とりあえず参加して(させられて)流れに乗っていたが、途中で詰まってくると不満が一気に吹き出して、ごねだして、まとまらなくなってしまう。

なんだか身近でもよく見かける話だろう。

統一された考え・思想がないまま、ローカルなルールでつながっている曖昧模糊な世界を生きざるを得ないのかもしれない。

あらかじめ法律があるにもかかわらず、平然と基準が守られていなかったり、知っていたとしてもローカルな「空気・雰囲気」に流されてしまったりする。

あるいは、科学的な見地が何度も示されているのにもかかわらず、前時代的な物語を否定するどころか、ますます固執したり、コンテンツとして消費したりする。

ルールがそれを作った人たちの利権を守るための、内向きで無責任さを保証してくれる存在なのだろう。だから、きちんとのっとって「勝ち組」が現れると一挙に嫉妬が沸き起こる。

そもそも「負け」を感じさせない仕組みのはずだったのだから。勝者がいることによって、敗者の存在を浮かび上がらせてしまう。

カイジのパチンコ沼の攻略を見ていると、スマートな勝ち方などなくて、突破口は力技しかないように思えてくる。もちろんそれが正解かどうかはわからない。


  





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公の場に「書き残し」て、ゆるい反論をすること

以前もひっそりとこのブログで指摘したが、ネットで議論をすることは難しいだろう。

参加するひとがいわゆる「大人」であるならば可能だろうが、だれでも発言が出来てしまえる公開の場で、他所の書き込みが主要な人たちの議論を邪魔してしまって滞らせてしまう。

時間やお金に余裕があれば、お祭り騒ぎや炎上として楽しむこともできるのだろうが、殆どの場合、参加者する人、または読んでいる人たちの時間を浪費してしまう。

議論が必要、と散々言われながらも、ネットで議論をするにはさまざまな制約が不可欠なので、本当に議論をしたいならば発言者を区切ったローカルな環境を作ったり、あるいわリアルな場で記録・公開しながらするべきだろう。

ネットで発言をするときには、一方的に「書き残すことしか出来ない」と割り切ったほうがいいのかもしれない。賛否はあるだろうし、その場その場の評価が変動したりしても、自分の主張をとにかく残す、という意識でしか表現できそうにない。そう考えないと主張できなくなってしまう。

紙・文字・ブログなどに一度落としこむ。(SNSは反論するためのハードルが低い)

正当な反論には、反論をしてもいいと思うが、まったく文脈・内容を読めていない絡みに対して反論しても時間の無駄だろう。

「絡みに対する反論」は、その反論をしてきた相手にコンテンツを供給してしまう。まして感情的に本気で怒っている人など、こちらの意見を耳にする気などまったくない。彼らは自らの正義の為に戦っている。それにまともに反論することもまた一方的な正義になってしまう。

対等な立場で議論する場がないこと、評価でなく抑圧する「空気」が支配的なこと、すぐさま「答え・原因・結論」を求める短絡さ、過去に起こった出来事や発言した過去の内容をスッキリと忘れる国民的健忘症など、いろいろな要因があると思う。

お互いの一方的な主張だけが「書き残される」状態は、議論・対話が好きな人達からすれば不健全にも見えるだろう。私は議論や対話を否定しているのではない。相手の資質がわからなく選択できない環境で、声高に反対論を主張しても、時間だけが流れてしまうので、回避するには公の場に「書き残す」しかないのではないか、と思っている。

「書き残す」のは”無視”や”逃げ”ではなく、自分の考えや行動を映した足あとだ。その内容が巡り巡って、評価が付けられて、過去に絡んできた相手に対してゆるい反論になるのだと思う。とても時間のかかる作業ではあるが。


※過去エントリ
度の恥は書き捨て: 3.11以降の情報取得と発信を自己検証(003) ~議論する場所~ 


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いまの大人が見るべきテレビ番組 ~NHK「ロンリのチカラ」~

テレビがなくてもネットで見れます。



三段論法の話から始まる。わかりやすく進んでゆく。

まだ二回しか放送していないので、今後はどうなるのか展開がわからないけど、チェックしてみようと思っている。論理学など習ったこともないし、関連した本も読んだことなどないけれど、番組でざっくりなところでも勉強できればいいのではないかと。

高校生向けの番組らしいが、いまの大人が見るべき番組だろう。

現実の世界で、わかりやすい事案などほとんどない。いろんな要因が複雑に絡み合っている。しかし、わかりやすく話を進めて、単純化して、結論に導こうとする人や仕組み、過去のエピソードであふれかえっている。

原発でもいいし、テレビ番組の放送中止要請でもいいし、漫画連載中止要請、とある雑誌の表紙が差別的表現とか、「●●は日本の伝統」とか、「●●はアメリカの陰謀」とか、「子供を持つ母親は●●するべき」とか、「これからは●●が流行る」……。例えを探せばいくらでもあるだろう。

主義主張を訴えるときに、物語や理屈を持ちだして、説得力をもたせようとすることもある。

さてはて、そこで語られているお話や物語や主義主張は、本当に説得力があるのだろうか?

論理的に説明ができない場合、ほとんどは”自分の直感”として主張するだろう。そしてその感覚を信じるための導きとして、前提を持ち出してくる可能性もあるのだ。結論ありきの組み立てをしてしまう。

「自分の主張が正しい」と信じたいのは当たり前だ。

自ら論理的に説明を試みようと努力する人はまだマシなほうだろう。

日本で生活する場合に、もっと複雑にしている事柄が「空気」の問題だ。

まぁ、ぶっちゃけ話、自分は何も考えていないんだけども、大多数の人たちが主張しているから、その方向に進まないといろいろ面倒くさいので、”とりあえず”同調する、という皮膚感覚。もうぅ、別にどっちでもいいよ、と。

何も考えない。主張しない。どっちでもいい。流行りもの・新しいもの大好き。責任取りたくない。判断したくない。安心したい。楽したい。などなど。

主張以前の段階で、そもそも「主張すらない」という大多数の人々。

ただし、なんらかの入れ知恵が行われた瞬間、とたんに群れながらスローガン、看板、旗を掲げて、感情、情緒、情動で一直線に進んでしまう。

やがて、飽きると散り散りに去ってゆく。

「異なる主義主張、齟齬について、どのようにお互いの折り合いをつけるのか」の手前の段階にすら立っていないのだ。

 そもそも「日本人に論理性を求めるのが間違っているのだ」という主張もあるだろう。いや、そもそもこの命題は正しいのだろうか?

少なくとも”真実はひとつ”ではないのだろう。


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麻雀を始めようと思った人のためのリンク

アニメ「咲 全国編」の前半ぐらいの放送までは麻雀のルールはよく知らなかった。同じ牌がふたつのアタマ(雀頭 ジャントウ)と、おなじ牌と数字の並んでいる牌を3つずつ揃える、というざっくりとしたことだけ。ポン、チー、をするとリーチできないので、どうやってあがるのかがわからない……

中学生ぐらいの時に友達の家で麻雀をやっていたが、みんなあまりルールを理解せずにドンジャラ的な感覚でやっていたように思える。高校生の時にはカード式の麻雀を部活の先輩が持っていて、部室でやっていたこともあった。しかし、3つずつ揃えることぐらいしか知らないままだった。

とりあえずちゃんとゲームが出来るぐらいのルールぐらいは知っておこう、と思い初心者向けのサイトを探してみた。ほとんどの麻雀解説サイトは、いきなり専門用語が出てきたり、構成がざっくりしすぎていたり、デザインが古かったりする。ウィキペディアは情報が多すぎるし、ページごとに細分化されているので、どのような流れで学べばいいのか見当がつかない。すでに麻雀のことを知っている管理人が片手間に作った印象があるのだ。

下記のサイトが一番わかりやすい。




五人のキャラクターが登場して会話形式で初心の初心部分から説明している。まずは基本的なルールを知るために1から16の項目を一気に読むことをおすすめする。細かな部分は忘れてもいいので全体像を把握してしまおう。

読んだあとは、ゲームなどで麻雀ができてしまう。サイコロや計算や牌の並べ方、リーチなどは自動でやってくれるので気楽にできるのがいい。

初心者のサイトで基本的なルールを学ぶと、雀頭と3つずつ牌を揃える、という以前から知っていたことと変わりない。弱い相手だと勝てるのだが、レベルが上がるとたまに勝てることもあるのだが、どうしても勝率が上がらない。ここからは知識と戦略が必要になる。


役を知らないことには、筋道が描けない。牌を3つ揃えない例外的な役もある。1つずつ覚えるしかないだろう。  


ゲームの場合は、自動でポン、チー、カンの選択肢が出る。安易に押してしまうと、牌が3つずつ揃ったはずなのに上がれない場面に遭遇してしまう。役にならないと上がれない。この細かい成立条件をきちんと覚えることが第一の壁かもしれない。自分はまだ把握しきれていない。

自分のパソコン版のゲームは将棋目当てで購入した「100万人のためのお得セット 3D囲碁・将棋・麻雀」だ。

 

iPhoneで麻雀をする暇はほとんどないがインストールしているのは、以前はオフライン一人用の「覇王麻雀天和-TENHO-」で、今はオンライン対戦や北斗の拳のモードもある「雷神」だ。



ちなみに自分はネット麻雀はまだやったことがない。すぐに負けてしまう気がするし、途中で席を立つ気楽さもないので。麻雀サイトには有料と無料があるらしい。有料のほうがみんな真剣に打つのかもしれない。
パソコンのCPU相手に一試合東南戦をすると20分ぐらいだ。RPGやシミュレーションよりもプレイ時間は断然短いし、アクションゲームのような反射神経もいらないし、将棋・囲碁・チェスよりは綿密さがなくても淡々と進められて、しかし一定の戦略が必要なので、麻雀は長く遊べるゲームだろう。

リアルの雀卓でやるには点数計算やら細かなルールやマナーを覚える必要がありそうで、だいぶ先になると思う。





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(nihongoからリブログ)

一度しか体験できない新鮮なiPhoneゲーム「perloo」


無料セール中にインストールしていたゲームで、時間があった時にちょこちょこやってみた。(2014/04/10現在は100円です)

タイトルロゴがでて、次に白い丸と黒い丸。iPhoneを傾けると白丸がうごくので、ボールを転がして穴に入れるよくあるゲームとおもっていたら、それは最初のステージだけで、クリアするごとに新しい形式に生まれ変わってゆく。

最初のステージでは、白丸を黒い穴に入れようとするのだが、壁にぶつかると、穴の位置が変わってしまう。何度も繰り返して、いくつかの壁にぶつかっていると、穴の出現する法則がだんだんわかってくるので、今度は頭のなかで記憶した壁の位置に触れないように白丸を慎重に動かす必要がある。

このゲームは、クリアの仕方がわからなくても、とにかく自力で解くことをすすめする。ゲーム全般にいえることだが、最初の体験がプレーヤーにとって重要になるからだ。軽々しく動画サイトを検索してルールを知って遊んでしまうと達成感は半減してしまう。

数字やバーなどのステータスが全く表示されいなくて、シンプルなモノクロ中心の世界がひろがっている。なにをやるべきかすらまったく説明されない。最近のゲームによくある丁寧なチュートリアル解説・ヘルプ項目など一切ない。つまりルールがよくわからないのだ。

人は、わからないと不安が増してゆく。

とにかく自分でいろいろやってみるしかない。iPhoneを傾けたり、タップしたり、スライドさせてみたり、と。

熱中していたプレーヤーは、いつしか己の姿勢がおかしなことになっていることに気づくだろう。

家庭用ゲームのコントローラー、もしくはモバイル端末は手元の指先操作で完結するので、身体全体を動かす必要などない。

生まれた時からゲームや携帯電話、スマホがある世代にとって、テレビゲーム慣れしていない人間が、モニターに表示される自機に合わせて握ったコントローラーを横に移動させたり、傾けてしまう反射動作を目撃することはほぼないだろう。

自分がはじめて友人の家でファミコンをやったときに、主人公の動作に合わせてコントローラーを一生懸命横に動かして友達に笑われた経験がある。

しばらくするとコントローラーごと身体を動かすことはなくなる。何度もやっていれば慣れるからだ。頭と体の動きが分離されたのだ。

おそらく家庭用ゲーム機が登場する以前は、頭と身体を分けて素早い複雑な操作を限られた時間で行う必要がなかったのかもしれない。

いまはパソコンのキーボードやタブレットのタッチパネルで、指や腕以外を動かすことはほとんどない。

だがしかし、「Perloo」は自らの身体を意識されてくれるゲームなのだ。それは距離をおいた白い三角が画面にふたつ並んだ最後のステージで十分わかると思う。

そして、これはほぼ一度しかできない体験である。ゲーム二周目は、ルールをほぼ把握しているためサクサク進む。自分の体がこのゲームに対して、頭のなかでルールを意識して、指先で処理できるよう変換を始めたからだ。

はっきり言って、未プレイの読者は今回のエントリを読んで「いったい何を書いているんだ、コイツは?」と思うだろう。

自分でも何を言いたいのかよくわからない。ネタバレせずに書くのは難しい。

唯一まともな注意書きをするのならば、電車の中でプレイはしない方がいい。人が多いと身体を自由に動かすことが出来ないし、突然我に返った時、他人からの視線が気になってしまうだろう。iPhoneのLEDライトが点灯するステージもある。できれは部屋の中でプレイするのがいいだろう。

ちなみに、ステージは大きく分けて、丸のステージ、四角のステージ、三角のステージがそれぞれ複数ある。

プレイ中にアプリを閉じて、再開すると、オープニングのタイトルロゴが流れるばめんで、黒い穴の他に、四角や三角の穴が表示されるので、白丸を四角に入れると四角のステージからスタートできる。ざっくりとしたコンティニューのようなものらしい。

「Perloo」というゲームはあなたが自ら体験するしかないのだ。




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