ネットは検証のない仮説だらけ ~「ロンリのちから」仮説形成~

ひさしぶりにNHKの『ロンリのちから』の番組ページにアクセスした。七話の「仮説形成」という言葉を始めて知った。なにやら推理モノのような展開が始まる。(動画は全部で八分ぐらいです。) 簡単に言えば「仮説」で、みんな普段から考えて口にしていることだ。

"仮説形成とは、「なぜ?どうして?」という謎に答えるために謎を説明する仮説を立てること"(番組より)

というか、ネットなどでは頻繁にみかける。「仮説形成」しかやっていないのではないかとさえ思える。


「●●の表紙絵は、女性差別だッ!」 (ワーワー)
「●●の逮捕は、見せしめのための警察の陰謀だッ!」 (ワーワー)
「●●の報道は、明らかにマスコミの印象操作だッ!」 (ワーワー)


そのほかにも原発とか、集団的自衛権とか、個人情報保護法などなど、同じ事が繰り返されている。

教師演じる緒川たまきが重要な台詞を口にする。


「仮の説を立てても謎のまま。だから仮説が正しいかどうか『検証』しなくてはいけない」


なるほど! あまりにも当たり前すぎて見逃していた。

仮説のままで、信じる者同士が奇妙な連帯をしては、時期が過ぎるとバラバラになって、それを何度も何度も繰り返しているのを目撃し続けていたのだ。

まずは仮説を検証しなければならず、事実に目を向けなければならない。

しかし、過剰な感情、バイアスがかかっていると、仮説を信奉してしまう。つまり仮説が真実である、と自分で信じたいが故に、検証したくなくなってしまうのだろう。仮説が、ただの仮説であることが証明されたくないから。

数字や科学的データなどで裏付けをすることで証明できる事柄もあれば、どのような手段であっても検証できない事柄もある。極端な例だが、「警察の陰謀」とか「政界の黒い霧」など一般人にはとうてい調べる術はないのだ。

極端な例でなくても、素朴に信じられている諺とか、名言とか、慣用表現とか、生活の知恵なども、わざわざ検証しないけど、昔から言われているから、まあ正しいんでょうな程度の認識だったりする。

検証しようがない事柄について、仮説が真実であるかのように利用する人もいる。検証されないから声高に主張しやすい。やり方は簡単で、大声で感情的に繰り返せばいいのだ。検証できないから、仮説が真実であるとして、見栄えのいい材料を集めて組み立て、仮説の土台を強化するだけで、なにやら真実のように見えてしまう。みんな真実だと思えてしまう。みんなが真実だと主張しているから、自分も真実だと思って大丈夫だろう、と無責任に信じてしまう。

このような恐ろしい状況を打開するには、失敗を認めて訂正しても激しく非難しないような社会を作ることだと思う。そして、子供にも大人が失敗している姿をみせて修正を学ぶような雰囲気がないと、仮説だらけ、感情だらけのゆがんだ社会になるのではないだろうか。


自分はTwitterを始めて五年たったが、いまだにフォロアー数が600人にもならないのだが、フォローせずにプロフィールページをブックマーク登録してアクセスしたり、鍵付きリストに登録してツイートをステルスで監視する”生霊フォロアー”はどんどん増殖しているような気がしてしかたがない。もちろんこれは検証不可能な仮説形成ですが(笑)

※参照サイト
 



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自然の窓口になるお天気アプリ

上京したときに始めてテレビ朝日の番組を見た。田舎にはテレ朝系列の放送局がなかったのだ。TBSの「ベストテン」は子供の頃によく見ていて、久米宏の報道番組は新鮮だった。その当時、あすの天気予報でCGを使うのが流行っていたようで、テレビ朝日の他にフジテレビの報道番組でもCGを使って日本列島を沖縄から北海道まで巡りながら各地の天気を、雨が降ったり雲がかかっていたり、グラフィカルに表現していた。

しかし、その手法はしばらくするとなくなった。おそらく天気のわかりづらさが指摘されたのだろう。

いまでは平面な日本列島に都市名があり、晴れ、雨、曇り、雪などの簡単な絵を載せている。おそらくこれから先、豪華なビジュアル演出はないだろう。

当たり前な話だが、天気予報は自然が相手であり、また雨ならどんな雨が降るのか、曇りならどれくらい曇るのか、晴れなら気温と湿度はどれくらいでどのように感じるのかなど、気象の具体的な内容は千差万別であり、さらに時間や詳細な場所などの要素を網羅して盛り込むとすると、ほぼ無限大の情報が提示される。

もちろんそれらすべての情報を提供するのは不可能だし、人間が把握できるはずがない。

天気予報はほぼ無限にある自然の情報を、基準に乗っ取って、枠を区切って、とりあえず示しているに過ぎない。

テレビ番組の天気予報が見づらかった話に戻れば、都市の空間と天気の表記がすでに曖昧で、CGデザインを軸に組み立てていたのだ。

スマートフォンにもさまざまな天気アプリがある。iPhone標準の天気アプリは背景の絵はおしゃれだが具体的な情報がすくない。オシャレデザインのアプリは細かい情報を削ぎ落として記号的に表している。アップルのUIに沿った意識だろう。

屋外で作業をする人間からすれば、削ぎ落とされた側の情報が欲しかったりする。どこで何時から雨が降るのか。どのような風が吹いて降水量はどれくらいなのか。朝晩の気温差はどれくらいあるのか。などなど。

オシャレなデザインは削り方に設計した人間の思想が現われている。いろいろなアプリを試してみたものの、やはり開発者は屋内で作業をしているためか、同じ屋内でiPhoneを持つユーザーに向けて提供している印象がある。いわゆるノマドワーカーも外にいた時に雨が降りだせば屋根と壁とコンセントのある喫茶店に移動できるのだ。そもそもiPhoneが防水設計されておらず、将来的にも実装しないようだ。

アプリは自分の目的に合ったものを選べばいい。晴れ、雨、曇りのグラフィックに凝っていたりいたり、時間ごとの細かい情報を示していたり、また逆に記号的な表示のみで色やデザインや動作に特徴を持たせていたりと様々だ。

個人的には tenki.jp に落ち着いた。巷では Yahoo!天気 の評判がいいようで、先日のアップデートで tenki.jp 側が意識したのか、似たような機能が増えてしまい、操作手順が増えたことが気に入らなかったが、とりあえず今の自分には一番しっくりくるアプリなのでしばらく使い続けると思う。




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コンテンツを発信し続ける人と消費し続ける人



あまりにもおおざっぱだけど、酔った勢いでもなく最近よく考えていた。

Twitterで自分のフォロアーをフォロー返ししてみると、大抵の場合自分よりも更新頻度が低い事に気づく。自分がフォローしている相手は更新頻度が高く、タイムラインにどんどん情報が流れてくる。

更新が少ない人が情報を消費し続ける、という表現が適切ではないだろう。しかし、発信し続ける人は自ら情報を集めて、消費しながらも、さらに発言のレベルを更新しているのだろう。

お手軽に、短期的に、情報発信の更新頻度を高めるためには、もしかすると自分の中で「好き嫌い」を決めてしまうことなのかもしれない。自分のスタンスが決まってしまうので、あとはその軸に沿って発信し続ければいいのだ。他人から非難されようとも、炎上あろうとも、ふぁぼ欄で自分の嗜好がバレようとも、過去の軽犯罪が指摘されても、すべての人から好かれなくても、空気を読まずに「好き嫌い」で突っ走ればアクティブユーザーの仲間入りになれる日も近い、かもしれない。

以前書いたエントリと矛盾しているが、「好き嫌い」を決めてそのキャラクターのまま突っ走ってゆくのは、ひとつの戦略としてアリだろう。

ただし、長期的に見た場合、固定されたキャラクターが飽きられるかもしれない。発言の傾向・考え方・行動がわかりきってしまうので、他の人が「あの人は、ああゆう人だから…」と陰で囁かれ、頑固者と言われて、そのうち無視されてしまうかもしれない。

自分の情報の発信している内容そのものに向き合えるのかどうか。それが個人のメディア性だろう。更新の頻度から、情報の質へ。

変わってゆくには、自分以外の他人の言葉に注意する必要があるだろう。ただの絡みなのか、適切な助言なのか。

コンテンツを消費する人をコンテンツイーターと名付けている記事を読んだ。まるで去年流行った漫画・アニメの巨大な人型をイメージしてしまう。消化器官が未発達で、一度喰ったものを途中で吐き出して、次の獲物を飲み込もうと四方八方に目を光らせている立ち回りなどは、まさに……


 




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「物語」に情報は無い?

麻雀のルールを覚えようとして、ネットを検索してみたとき、最初にWikipediaが出てきてアクセスしたのだが、数多く書かれたルールの目次のようなページがでてきた。文章を上から順番に読んでいても、あの独特の専門用語やら役やら点数やら牌が並んでいて、情報量の多さに辟易してしまった。

他にわかりやすいサイトがないものかと、検索結果に表示されたページを当たってみると、麻雀のルールを説明したいくつかのページがあったものの、牌の並んでいる画像で役なり、文字の色づけでルールなりを列挙した無味乾燥なものばかりだった。

ルールも世界観も全くのわからない状態から、専門用語あふれる世界に放り込まれても、輪をかけてわからなくなってしまう。

そんな中で出会ったのが、以前も紹介した「初心者のための麻雀講座」だ。

特徴的なのが人間四人とロボット一体の会話で話が進んでゆく。物語形式だ。覚えるべき情報の順番が並んでいるので、非常にわかりやすく頭の中に入ってくる。

インターネットが一般的になって、検索すると情報量が半端なくある。しかしながら表示されるのはページごとの断片ばかりだ。本の場合だと目次があって、ページごとに前後のつながりがあって、一冊のテーマごとに情報が綴じられている。麻雀ひとつをとってみても、基本の基本的なことから、細かなローカルルールまで把握するために、覚えやすい流れがある。まったく世界を知らない初心者にとって、ネットの断片情報はかえって混乱をまねく。手っ取り早いのは初心者向けの本を手に取ることだろう。

ネットであっても本であっても、膨大な情報を一通り把握するには「物語」が有効なのだと思う。科学や数学や美術や歴史でも通り一遍につかむためには有効だろう。

手っ取り早く”情報”そのものだけを知りたい人にとって「物語」は余計で邪魔にみえる。登場人物が絡み合い台詞を口にする流れには、回りくどさがつきまとうだろう。

「物語」には”情報”を得るための補助輪のような役割があるのだ。

ただし細かな情報が削ぎ落とされているので、もっと深く知るには目的に向かって近づいてゆく必要がある。つまり自分で調べるしかないのだ。

「たとえ話」「比喩」「類比」などでも同様だろう。余計な情報はなくして、とりあえずザックリと情報を伝えるための方法としては有効なので、テレビ番組でもよく使われる。

しかしながら、”情報”を検索した断片だけで、脚色されたようなたとえ話や比喩で知ったような気分になって、相対する他の情報と類比して、自分がその”情報”を知ったような気分になり、安易に片方を持ち上げ、もう一方をさげすむのはとても危険な行為・考え方だろう。

自分の主張が正当であることを、自分の「物語」や「経験」から語る人は多い。

私の経験からすると(笑)、「『物語』に情報が無い」とさらりと口にする人ほど、自らの「経験」を語りたがるようにみえる。本人にとってこれまで歩んできた人生から導き出した法則は、必要に迫られない限り変える必要が無いからだ。

しかし、その主張が正しいかどうかはまったく別の話だろう。




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ネットの”遺憾コメント”の拡散力と無判断

セクハラの野次が都議会で行われてから、とあるブログで火に油を注ぐゴシップのような文章が書かれていた。時事的な話題でもあり、たくさんツイートされていた。ツイートボタンの吹き出しの数字をクリックすると、ブログのページを紹介した検索欄が表示される。誰のアカウントが、どんなコメントを付けてタイムラインにポストしたのかがわかる。ノーコメントでそのまま紹介していたり、嗤っている人もいた。おそらく多くリツイートされた順位だろうが、Twitter内で有名な方をちらほら見かけた。自分がフォローしている人もいた。

内容が内容だけにTwitter内有名人の方々も「●●(書いた人)は残念だ」とか「なんだかなー」など、微妙な”遺憾コメント”とともにURLが付いている。

自分が不思議に感じたのは、「残念だ」と支持・同意できない気持ちを表しながらも、URLを添付してツイートをした人たちのその判断だ。

たとえば、政治家が会見で記者に質問されたときや、芸能人が囲みでレポーターに意見を聞かれたときなどに、自身の気持ちや意見が整理されてない状態であるにもかかわらず、しかしながら何かの言葉を発しなければならない状況に立たされていて、体裁や時間的な制約の考慮があって”遺憾の言葉”を重々しく口にするならまだ理解できる。

ネットの話に戻るが、URLを添付しつつ、徹底して批判するとか、秀逸な分析を行うなら、賛否はあれど紹介した人の意図がはっきりわかるだけでも理解できるし、前向きに評価できる。

気持ちが整理できないのであれば、無視するという最良の方法があるはずだろう。ネットから情報を拾った人たちは、常にマイクやカメラを他人から突きつけられているわけではない。SNSでフォロアーが返信に情報を一方的に飛ばしてくる場合があったとしても、無視することは容易なはずだ。

本質から外れた「くだらなさ」をフォロアーと共有したかったのだろうか? 

"遺憾コメント"を付けてツイートした人たちに上記ような意識はなかっただろう。恐らく目の前に流れる情報に対して、反射的になんともない言葉を付け足してしまったのだ。

つまりはフォロアーに対して、ただ紹介しただけである。ゴシップの情報を。

そのツイートを受け取ったフォロアーは、くだらない、残念、とおなじような思いになるかもしれないし、あるいは議員をあざ笑い、さらなる過去の行いを掘り起こそうとするかもしれない。

考えるべきは「お祭り炎上案件」に貢献してしまった、という事実だろう。反射的な情報の手渡しが、さらに油を注いでしまう。ブログを書いたページビューは伸びに伸びて、話題は本筋をそれて拡散し続け、そもそも問題は一体何だったのかわからなくなってしまう。


「そもそも名のあるブロガーが情報発信をしているのだから、私が紹介のツイートをしようがしまいが、そのゴシップ内容は世間に広がるんだから、別に関係ないんじゃないの?」

「いや私は遺憾に思う、とちゃんと書いてツイートしているし、受け取ったフォロアーがどう思うかは、その人の判断だから関係ないよ。ある情報はどんどん広げた方がいい」

「つーか、そもそも世の中はほとんどバカばっかりなんだから、ゴシップで炎上するのは当たり前だよ!wwwww 別に祭りでもいいじゃんwwwww てゆうか、俺も頭良くない平民だから、自分で考えるなんてめんどくさいんだよ。目の前のこと楽しんでるだけwwwwwwww あとはお偉いさん方が、その本質とやらの議論をすればいいだろ お 前、な に イ ン テ リ ぶ っ て ん の ! ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」


という反論があるかもしれない。

ネットが一般的に使われて、ブログやSNSで全世界に情報を発信する環境がある中で、個人がメディアになる、と喧しくなったのはいつ頃だろうか。

皆、情報を受け取ることに敏感でありなりながらも、自ら情報を発信することに鈍感なのだ。それは大手のメディアにも通じるところがある。

政府の情報をそのまま報じたり、古いイメージの型や物語に載せて、わかりやすい善意で放送したり記事にしたりする。そしてそれは、”個人のメディア”にも見て取れてしまうのだ。

お手軽・反射的に情報に反応する人ほど、自分自身のメディア性に鈍感だ。


※2014/06/28 記



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サッカーは戦争だ。そのとおり!

サッカーを取り巻く言葉が戦争に似ているのは、指摘があたっているように思える。しかし、なんだか納得できかねる。

楽勝だと思えていた戦いに敗れて、ここは踏ん張りどころという戦いでも引き分けで「善戦」という言葉とともに、次は負けられない戦いと喧伝されて、策がなくなった状態で挑む心構えが精神論ばかりで、まさに神風を待つかのような空気に染まり、いざ終ってみると、やっぱり実力差がありすぎたよねぇ~、と覚めた意識に戻って、戦った人たちに対してなにやら冷たい空気を当てる。もちろんすべての人に当てはまることではないだろうが、どうしても既視感を覚えてしまう。

一方で、全く注目していなかった競技選手が世界大会で優勝したり、音楽家の人が権威ある舞台で活躍したりすると、あっこんな日本人いたんだ! と突然現われた存在をまるで神様のように扱ったりする。もしかすると全く事前に注目されず、ただ淡々とこなしている人を邪魔しないように気を遣うことが、おおざっぱな国民性として一番いい方法なのかもしれない。

ナインティナインの岡村隆史が渋谷の交差点で騒いだり痴漢行為をする人たちを批判していた。ネットで調べてみたら動画サイトにラジオ放送の投稿があり聞いてみたのだが、批判というよりも、残念という気分を口にしている様子だった。そのあと、自身が小学生時代に波の立つプールで水の流れに合わせて逃げるように痴漢行為をしていたことを告白していた。一部のメディアが騒ぐ「にわか」批判ではないことは明らかだった。

サッカーを取り巻くたくさんの情報と戯れていると、岡村の発言と「にわか」を巡る話がごちゃごちゃなまま批判として都合良く語られてしまったのだろう。

村上龍の「サッカーは戦争だ」という文章がある。該当するエッセイをすべて読んでいないし、自分が著者の意図を理解しているつもりなどないが、ネットが一般的に普及する以前の釣りのような気を引く文章の技術であることは、村上龍のエッセイに慣れている読者であればわかりきっていることだし、最近の正面切ってこの文言に反論すること自体が的外れなのは明白だろう。

むしろヨーロッパのクラブチームの試合を取材した村上龍のレポートを読むと、地元のサポーターがいかにサッカーが好きで詳しく、相手チームの罵倒に対して車を壊したり、野次を飛ばしているのかが伝わってくる。

サポーターたちは本気で応援しているのだ。

応援される選手からすれば緊張感が半端ではないだろう。負けた試合の日は町で外食はできないそうだ。必ずサポーターに絡まれるから。

もちろん日本人が荒れたサポーターになれ、ということではない。岡村隆史が「負けた試合でハイタッチするって理解できんわぁ~」という指摘は、応援の本気さが感じられず、ただ戯れて浸るだけのお祭り気分に利用されていることに苛立ったのかもしれない。

子供のいる女性タレントが言っていた。サッカーの強い小学生チームで共通しているのは、試合で応援しているお母さんたちが「必死で本気で応援している」のだという。

本気の戦いは自然と戦争の色を帯びてくるだろう。しかしそれは全く戦略のなかった日本の先の戦争とは全く別次元のものだ。


※2014/06/25 記




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好き? or 嫌い?

吉本興業の偉い人がテレビ番組に出演していた時に、「横山やすしさんは、人と会うと五秒で好きか嫌いかを決める」と言っていた。それを見ていた自分は、そうゆう考え方もあるんだろうな、と思った。

直感で決まることもあれば、他人からの影響で決まることもあるだろう。著名な人や親や友達や、あるいは地域的文化的なこともあるだろう。最初はなんとも思っていなかったが、だんだんと時間が経つにつれて、好き嫌いに寄っていくこともある。

逆に、相手の「好き嫌い」の反応によって、こちらの「好き嫌い」が定まってしまうパターンもあるだろう。

「好き嫌い」で相手への判断が決まると、そのあと考えるのが楽になる(ように思えてくる)。


私は「Aが嫌い」なので、彼に対する対応はいつも決まっている。とにかく”嫌い”なのだ。服装のセンス、しぐさやしゃべり方、休日の過ごし方から、持っている車、考え方もそうで、Aのやることなす事全てが気に”入らない”し、親しく会話をする連中とも私は”相容れない”だろう。私のこの考えは揺るぎない。


上の文章は「好き」と言い換えて”引用符”の中身を好意ある言葉に替えても成り立つだろう。

そして、あるとき、好きな相手だったのに嫌いな感情が芽生えたり、反対に、嫌いだった相手のいい部分を発見することもある。嫉妬の始まりだ。

心が反転した瞬間をとらえた時、どう思うのだろうか? 自分の感情を素直に認めるのか? それともこれまで通りの「好き嫌い」の判断と態度を未来永劫続けるのか?

若干長々と書いてきたが、相手に対する気持ちがどうであれ「好き嫌い」の感情に支配され続けていることを指摘したかったのだ。「好き嫌い」というのは根本的なものなので、心のなかから完全に取り除くことは出来ない。おそらく日本的な”甘え”の感覚も同時に潜んでいるだろう。しかし、自分の感情を小さく収めて距離をとって観察することはできる。

おそらく横山やすしが活躍していた時代には、取り巻きの人たちがたくさんいて、彼らが嫌われた人との対立をかわしたり、収めたり、逃げ込める場所を用意してくれたと思う。時間の感覚も今とちがってもっと余裕があっただろう。

リスク回避の無責任と、押し付けの自己責任が深刻なほどに跋扈している現在だと、助けてくれる人と接する機会が少なくて、逃げられる場所も多くないだろう。

ひとりの人間には多面な要素があるので、一括りにして一方的に「好き嫌い」を判断するのは合理的ではないし、あとあと融通が利かなくなる。適宜観察して部分的な評価をする必要がある。そして、その評価自体も相手の変化によって変えるべきだろう。

「好き嫌い」の判断は永遠に先送りしても構わない代物なのだ。






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アンチは真摯で絶え間ない努力家

好きなアニメの面白いMADでも探そうと思って、ニコニコ動画を検索してみると、アニメの批判をするタイトルの動画を発見してしまった。少しだけ覗いてみたのだが、このまま見続けると気分が悪くなりそうなのですぐに消した。アニメにかぎらず作品名でネットを検索してみると、匿名掲示板なり、匿名でブログに批判を書いていたりするのが見つかる。まっとうな批判ならまだしも、大抵はバイアスがかかった感情的な文面で、読み終わると、「嫌い」という言葉を別の表現に置き換えて主張したかっただけ、で済む内容だったりする。

アンチはどこにでもいるようだ。

うるさ型・煽ってゆくスタイル・囂々な言葉を並べたてるのは、ネットでお手軽に主張できる方法なのだろう。とりあえず思いついたことを書きこんでサーバーにデータを送信して画面に表示されることで自らの存在と主張ができてしまうのだ。

自らの主張を強固なものにするための、さらなるお手軽な方法は物量作戦だ。つまり文章量である。更新頻度である。データの総量の膨大さである。内容の精度などはどうでもいい。とにかく書き続けることによって、自分をフォローしてくれている人たちにコンテンツを供給しつつ、自身の居場所を確保して、批判する対象に精神的なダメージを与えることができるのだ。

批判をすることで、話題になった相手の裸の王様ぶりを暴露した気分になり、自分が高名な批評家やジャーナリスト、インフルエンサーにもなったように思えるだろう。フォロアーから賞賛を浴びればますます自分が正義であることが更新され、証明になってゆく。

しかしながら、アンチの人々は気づいていないのだろう。自分の主張が目にとまったモノに反応しているだけのことに。目の前に批判できるモノがなければ、自分の存在そのものが証明できないことに。

そして、自らが絶え間ない努力家であることに気づいていない。

その努力のエネルギーを他のことに向けて懸命になれば別の道が開けて新しい発見をするるかもしれないのに、なぜやらないのだろうか?

まず始めるべきはあら探しの批判をやめて、提案すること、褒めることではないだろうか。

 




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近道はなかったし、王道もなかった

前回からの続き的な内容です。

地図の情報から受け取る現在地、目的地、そして道順という流れは、人のものの考え方にも当てはまる。

例えば陰謀論を取り上げてみよう。大雑把に説明すると、表には決して姿を見せない「影の支配者」が君臨していて、その指示のもとに配下の諜報員が一般市民に工作活動を仕掛けて、人々が操られている、というものだ。

陰謀論者にとって「影の支配者」の存在が絶対の条件であり、自らの主張を支える土台であり目的である。いないと困るのだ。たとえ妄想であっても、居てほしいと願う。いや、いなければならない。「影の支配者」の居場所へ至る道のりをつまびらかにすることが、自分自身の進むべき正義であると信じて疑わない。

なぜならば、現在の自分の置かれている状態に漠然とした満たされぬ想いがあるから。私がいまここにいるのは、本来の私がいるべき場所ではない。私がここに留まざるをえないのは、他でもない「支配者」のせいであり、彼の諜報員たちの工作行為であり、いまだ”真実”に目覚めていない民衆を永遠の眠りから救うべく私は立ち上がり動き出すのだッ!それが私の使命だッ!

という例えは極端すぎて中二病と揶揄されてしまうだろう。

しかしながら、似たような思考回路はいたるところで見かける。

テレビによく出ているあの経営者が悪い。ウチの社長は馬鹿だから。総理大臣が無能。官僚は無責任。マスゴミ。凶悪犯罪者は死刑。戦争が悪い。平和ボケ。親の世代が悪い。男が悪い。女が悪い。子供が悪い。オッサンオバサンが悪い。容姿礼賛の風潮が悪い。学歴社会が悪い。金持ちが悪い。マジョリティが無関心。日本の教育は欠陥だらけ。新築マンションも建てるだけで欠陥だらけ。先進国の中で日本は遅れている。日本の「空気」が悪い。などなど。

今の不満から原因を探して、自分の正しさを証明するために情報を収集して、頑なに主張し拡散し続ける。

それは間違いではないにしろ、正しくもないことに気づくべきだろう。

わかりやすさが共感を導き、湧き上がった強烈な感情が人を引きつけて、声高な主張が陶酔を生み出し、目的とする場所まで一本道を大行進できるかもしれない。

しかし、それは一時的なお祭り騒ぎであって、解散してしまえば、みんなはもとの日常へ戻ってしまう。決して近道ではなかったし、王道でもなかったのだ。

もっとも重要なのは「祭りのあと」に、自分が何を始めるか、だろう。

あくまで自分のいる現在地を確認して、目的地を捉えつつも、いま進んでいる道の周辺に何があるのかを観察して、新たな道のりを考える力が必要ではないだろうか。



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地図アプリを扱う時の心構え

先日、外で職場の同僚を待っていた。とある公園が待ち合わせ場所だった。バイクでやって来る彼には住所を伝えていた。三丁目の二十五番地。

ベンチに座って待っていると、懐の携帯電話が振動しながら鳴った。彼からの連絡だ。

「いま、三丁目の二十三番地に居るんですけど、あのー、どの辺りですかね?」

公園が見つからないので慌てている様子だった。朝から忙しくて、かなり予定の時間から遅れて、私へ荷物を届けに来たのだ。下町の見通しの狭い住宅地なので、一方通行だったり、入り組んだ細い道路があって迷いやすいのだろう。

二十三番地は道路をはさんですぐ隣だった。おそらくその区画の反対側に居ると思って、周辺の様子を確かめ案内しようと私は公園から出た。

すぐ目の前の、電柱の近くに原付バイクを停めて、スマートフォンを必死にスワイプ・タップしている男がいた。それが同僚であった。まったく私の存在に気づいていない。おそらく地図アプリで懸命に場所を検索しているのだろう。こちらが話しかけるまで、待ち合わせの公園が目の前にあることすら気づいていなかった。

彼は極端な例なのかもしれない。たしかに少し変人扱いされている。

隣の番地なのはわかっているだろうから、スマートフォンの小さな画面を凝視するよりも、周りを見回したり、自分の足で辺りをしばらく眺めて歩けば、膨大な情報をリアルタイムで掴めるはずなのに、なぜ同僚はアプリの検索に集中していたのか?

地図アプリで一番使う機能は検索だろう。現在の居場所、目的地やそれらをつなぐルートが示されたり、評判のいいお店を探したり、乗り物の時刻表を調べたりできる。

ユーザーの頭のなかでは、目的の情報が「一点」「極点」で存在していて、いまいる「地点」から複数あるルートを絞り込んでくれる便利さはとても快適だ。とりあえずひとつの「正解」が無数の経路の中から導き出されるからだ。途中の手間を秒殺で排除してくれる。

一方で、目的そのものや自分自身の記憶が曖昧だったり、もしくは関連した情報が膨大にあって、すべて列挙されてしまった場合、「正解」は埋もれて失われてしまう。

自分の記憶を疑い始めると止まらなくなり、事実関係を正確に記した文章やら映像やら外部データがないと、目的地へ向かう第一歩すら踏み出せなくなってしまう。

膨大な情報を統合して整理するには、事前にあつめた断片から余計なものを捨てて、理解しやすいように順序立てている必要がある。教科書やマニュアルなどだ。準備に時間とお金が不可欠だ。

同僚は「点(目的地)」と「点(現在地)」と、その間を結びつける「線(経路・道順)」の情報ツールに依ってしまったのだろう。

モバイルで地図アプリを使っていると、画面枠の狭さを意識せざるを得ない。スライドさせれば地形を果てしなく移動できて地球の裏側まで行けるが、覗きこんでいる窓枠の大きさを変えることは出来ない。拡大縮小で適宜データ表記の変化は起こるが、地図の情報は効率よくするため基本的には簡素だ。

紙の地図はページを開いた時に情報の載った紙面全体が視覚に入ってくる。最初に該当する地域の全体像を把握できる。そこから現在地と目的地と道順を自分の頭で検索する必要がある。焦点を絞りこむ作業はあなたの自由だ。

紙と電子のどちらがいいか悪いかを問いたいわけではない。地図アプリが示した道順をまったく無視して、あなたが別の道を突き進んでもまったく構わないのだ。

なんでこんなエントリを書いたのか。議論したり、ニュースで話題になっていることをコメントする際にも応用が効いたり、他人の発言からその人自身の考え方が把握できるヒントになるからだ。細かいところは長くなるので、機会と私の説明能力があれば(?)続きを書こうと思う。


 




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